美術館に行ってきました。

 先日、久しぶりに美術館に行ってきました。訪れたのは神奈川県茅ケ崎市にある茅ヶ崎市美術館です。やっていたのは特別展『ちいさな版画のやりとり』、副題が「斎藤昌三コレクションの蔵書票と榛(はん)の会の年賀状」、こちらの美術館は地味ながらも版画のコレクションが多いのです。

 茅ヶ崎市美術館は小さな美術館ですが展示室は3つ有ります。この「ちいさな版画のやりとり」は展示室1で行われていました。蔵書票というのは本の所有者を示すために書物の見返しに貼り付ける小さな紙のことなのだそう。隠れた愛好家たちがいらっしゃって、自身のものを製作するだけでなく、交換したり集めたりして楽しまれているとのこと。一点一点はとてもちいさな版画なのですが、展示されている作品はかなりの数でした。

 戦後間もないころにつくられた作品なども多く、それらはデザインも素敵だったのですが経年劣化した紙の質感もまた味がありましたね。一つ一つ、どの作品も魂が込められている、そんな印象でした。また販売目的の絵画などとは異なり、自分が納得のいく、それも自由でその作家さんの嗜好がそのまま現れており、もう何十年もたった蔵書票からはどれもその作家さんがまだ目の前にいて、その人となりが伝わってくるようでした。

 地下1階の第2展示室、第3展示室ではそれぞれイエアトリエこども造形教室の生徒さんたちの作品展示、また地元の写真グループの方々の富士山写真の展示が行われていました。ゆっくり一つ一つの作品を楽しませていただきましたよ。

 あらためて思うことは「アートっていいな」と、その一言に尽きますね。穏やかでとても充実した楽しい時間を過ごさせていただきました。

 帰り道、もう白梅が咲き始めていることに気づきました。季節は着実に春に向かっているんですね。

 この展示は来月2月25日まで開催されているようです。茅ヶ崎市美術館、地方の小さな美術館ですが、興味のある方は足を運んでみられてはいかがでしょうか。

2024年1月22日 こけのきもち

二枚(二つ)の鉛筆画

 前回の記事の中で半年ほどかかった鉛筆画のことを述べたのですが、今日はその鉛筆画の完成までの経緯をお話ししたいと思います。

 下の作品がその鉛筆画で、タイトルは「新しいタイムラインの花の開花」です。紙のサイズはF6、マルマンのヴィフアール水彩紙細目です。前述のようにサイズがやや大きめだったため、描き始めからこの絵を仕上げるまでに約半年もかかってしまいました。

 

 一見、これが何の絵であるのか、またこの絵のメッセージが何であるのかはわかりにくいかと思います。それに色彩を伴わない鉛筆画ですしね(ことわっておきますが鉛筆画といえど、原画はこの画像よりもずっと綺麗)。

 この絵で描いた状況は、まずアリの探検家たちがいまして、彼ら探検家たちはいろいろな遺跡を巡って発掘にかかわっている優秀な探検家たち、という設定なのです。そして彼らたちの間では、古くから「まだ見つかっていない遺跡のどこかに、出会えば新しい時間の流れに乗ることができる花がある」という言い伝えがあり、それも「その花の開花に出会った者たちは各々の真の姿を自覚して新しいタイムラインが流れ出す」というものなのです。遺跡には不届き者が近づくことができぬようアリジゴクのオブジェもあったりするのです。

 さて現実世界のボクらの社会状況を振り返ってみれば、2019年以降、感染症騒ぎ等でずいぶんと価値観や個々の行動の様子が変化してしまったと思われます。その中でボクは、これまでの慣習や常識にとらわれず、本来の自分を取り戻す時間の流れが、ゆっくりと、でも確実に押し寄せてきていると感じたのです。

 上の鉛筆画で伝えたかったことは、絵のタイトル通り「古い社会常識を脱ぎ捨てた、本来の自分の行動を進めるタイムラインに気づき、その流れに乗ろう」ということなのです。そのためには「本当の自分とは?」という気づきも必要でしょう。そして大事なことは自分に対して「もっと自信をもって、自己肯定をしていいんだよ?」ということです。ですからこの鉛筆画はこの絵を見てくださった方々へのメッセージであるとともにボク自身への応援歌でもあるのです。そんなつもりで描いた鉛筆画、納得いくまで、納得いくまでと、しかも空いた時間に少しずつ描き進めた結果、描き始めから半年ほどもかかっちゃったんですね。

 さてもう一枚、ボクは以前に一見その絵が伝えたいメッセージがわかりにくい鉛筆画を描いています。それがこの下の絵、タイトルは「トラジ(時間をかすめ取る盗人)が来る!」です。

 トラジというのはもう安直な発想で作った造語で「時間を盗る」からつけた名前です。

 X(旧ツイッター)でのボクのフォロワー様たちはお気づきだと思うのですが、この絵はまず音楽家平沢進氏の名曲『盗人ザリネロ』へのオマージュなのです。できることならタイトルもそのままいただき「盗人ザリネロが来る」にしたかったくらいなのです。そして平沢進氏の「盗人ザリネロ」のサビの部分である、高い空に突き抜けていくようなあの高音の美声に対するボクなりの解釈はこれなんですよ。(他の平沢進ファンの方々、すみません。)

だってね、歌詞だって思い出してみてください?

遠くキミを探してここに来たか

無い あるはずの朝 キミをめざした

 この曲の、上質な古いフィルム映画を観たような心地よさ、ボクはもう心打たれて「さ、一枚、気合を入れた鉛筆画を描いてみるか」と4Hの三菱のユニ鉛筆を手に取ったのですよ。ボクが描きたかったメッセージは「ぼぉ~っと生きていると盗人ザリネロが来て、気づかぬうちに大事な大事なキミの時間をかすめ盗られちゃうよ?」ということなのです。そんな気がしたんですね、その時に。絵を描く理由が成立しましたよね。何か大きく心を揺さぶられた時、ヒトは絵を描きたくなるのです。とボクは思うのです。そしてそれを疑わないのです。

 今回も「この人、何言ってんだか?」な記事になってしまいましたが、ご清聴いやご清読?ありがとうございました。絵を描き始めるきっかけは、毎日何時にもうごめいています。絵の具や大仰な画材はちょっとなぁ、という方は、まず鉛筆からでもいいのです。気持ちが大きく動いた時、絵を描いてみませんか。もしかしたら、あなたの中にも上記の「新しいTLの花」が開花しているかもしれませんよ?

2024年1月14日 こけのきもち

新しい年を迎えて

みなさま、新年あけましておめでとうございます。この「こけのきもち美術館」は昨年の12月に公開したばかりのサイトですが、新しい作品のアップ、サイトの構築、またこのブログ記事の更新、とそれぞれを前へ前へと押し進めて参りますので、どうぞ今年もよろしくお願い申し上げます。

さて、今年は年始の元日から能登の大地震、また2日には羽田での航空機事故と、立て続けに大きな出来事が起こってしまいました。その他にも政治への不信から、いろいろなことが起こる一年になりそうです。このように大きな事件が起こり、世間が騒がしいときというのは、誰しもが心中穏やかではいられないと思います。ですが、ボクは「個人にできることには限界がある。だからボクは自分の軸を見失わずに、できることを粛々と進める」ことに努めたいと考えます。

自分の軸を見失わないこと、というのはボクにとってはイラストや絵の作品づくりにおいて自分の内なる声に嘘のない表現ができているか、ということに尽きるのかもしれません。正直な心の内を述べれば、ボクはこれまでSNS等で投稿した自分の絵を他人がどういう目で見ているのか、どのような評価を下すのか、果てはフォロワー受けする絵を描かねば、なんて考えたこともありました。けれどもそれって違いますよね。ボクは周囲の目を気にせずボクの描きたいものを描いた時に初めてボクの個性が(ボク自身もわからないうちに)出るわけですから。

こうしてボクはネット上にホームページまで開いてブログを書いたり自分の作品を展示したり、を始めたわけですが本当のところは他人とコミュニケーションをとるのが苦手で、ひっそりとまた物陰でじっと静かに周囲の様子をうかがっているような人間です。(ペンネームをこけのきもちとしている由来でもあります)でもいつか読んだ故・岡本太郎氏の著書「壁を破る言葉」には次のように書かれていました。

絵を描くということは、疑うことのできない、すべての人のうちにある本能的な衝動なんだ。歌うこともそう。叫ぶことも、躍ることも。表現欲というのは一種の生命力で、思いのほか激しいもの。

また同じ著書の中で太郎先生はこうも描かれています。

ぼくは、人に好かれる楽しい絵を描こうとは思わない。それよりも猛烈に叫びたい。絵のなかで。

ボクはこの太郎先生の言葉もあって、自分も今年は大いに自分の絵の中で叫びたいと思います。それが自分の思うようにこなせたとき、世の中の何かを後押ししたり、あるいは、世の中の多くの人にとって不必要とされる何かの不可解な動きを抑えたりする力になる、と思うのです。

新年早々、ずいぶん抽象的な表現をしてしまったかもしれませんが、あらためまして今年もよろしくお願い申し上げます。

そうそう、先日鉛筆画の話でお話ししました約半年ほどかけて描いてきた鉛筆画、あれは完成しました。初めてF6サイズという大きな画用紙に描いた絵です。近々、鉛筆画の展示室にも挙げ、どういうねらいで描いた絵なのか、などについても記事を書こうと思っています。

お絵描きは楽しい。

ではではみなさん、またよろしくお願いします。

2024年1月3日 こけのきもち